週1ペース更新、年50本のブログを書くことを密かな目標にしています。
基本は月に4回の更新が必要になるペースで、3回目の更新。
ペース的にはオンスケというところだろうか。
さて今日の更新。
「ただの不倫報道」とは思えなくなった理由
数々のヒット曲を生み出し、平成のアイコン的存在であった小室哲哉さんの
不倫報道、それを受けた引退宣言。
不倫自体の是非は置いておくとして、自分は芸能人・著名人の不倫報道は非常にくだらないものだと考えている。当事者と弁護士で解決できればいいじゃん。他にも重要なトピックはいくらでもあるのに、芸能人の不倫報道に多くの時間を割くマスコミは視聴者を舐めきっている。それにまんまと乗せられて芸能人を叩く視聴者も暇で暇でしょうがないんだろうなと思う。
今回もどうせ似たような件で、あーくだらないなーと思っていた。ただ、この一件の背景には、「妻KEIKOさんの介護」という問題が絡んでいることが明らかになった。
それで見方が変わったというか、「家族や近親者の介護」という、目をぎゅっと閉じて背け続けている現実が、この国では、どんな人の近くにも迫っているということに改めて気付かされた。
(えっ、KEIKOって確か、まだそんなに年じゃないのに…というショックも正直あるにはある)
日々介護をしておられる方からすると、そんなのはもう当たり前で、こんな風にのん気な表現ができること自体、当事者感がないといえばそうかもしれないが。
もはや日常と化している、介護という問題
公式なデータを少し見てみることにした。内閣府作成の 平成28年版高齢社会白書(全体版) 。その一部に、介護の現状についてのデータが記載されている。
3 高齢者の健康・福祉|平成28年版高齢社会白書(全体版) - 内閣府
ざっくり言えそうなことは以下。
・認知症患者は増え続けている
・平均寿命の伸びに対して健康寿命はそれほど伸びていない。つまり、介護期間が増加している
・自宅で終日介護しなければならない人の割合も一定高く、そのため、(主に女性が)離職や転職をせざるを得なくなっている
世の中ですでに言われ尽くされていることではあるが、データを見ると改めて厳しい状況だなと実感する。
介護人材という側面からみたデータはこれ。
http://www.wic-net.com/pdftmp/3088_1_3_1516444771.pdf#page=1
こちらはざっくり何が言えるかというと
・最新の有効求人倍率は約3倍(逆に言うと、求人数に対し1/3しか求職者が集まっていないということ)
・せっかく集まっても、体力的・精神的にきつい業務による不調、不十分な収入により、離職率も高い。
ということだ。
いくら福祉施設や老人ホームがあると言っても、家族や近親者が世話をしないといけない状況はどうしても生まれる。病状的に入居できなかったり、順番待ちになってしまったり、高額なホームの費用を工面できなかったり。
お金がたくさんかかる上に、介護施設のキャパシティには限りがあり、お金だけで解決できる問題でもない。
小室哲哉さんは90年代のヒット曲連発で相当に稼いでいたと思われるし、詐欺事件などがあってその大部分はなくなってしまったものの、人並みかそれ以上の暮らしはできていたのだろうと思う。でもそういう人でも避けられない問題。それが介護。
ましてや、我々一般人は早くに家族を亡くしたり、何らかの理由で縁を切っていたりしなければ、ほぼ確実にやってくる。
自分の家族の話
自分の家族でも、近い話がある。
祖父は90歳を過ぎて、軽度ではあるが認知症と診断された。幸運にも自宅からそれほど遠くない場所で入居できるホームが見つかり、現在は基本的にホームにいながら時々自宅に帰るという生活をしている。
祖父の娘にあたる母は、時々訪問はしているが世話をしているわけではない。祖父とはあまり仲が良くなかったという話は聴いたことがあり、たしかに2人の会話は事務的で最低限の内容にとどまっていた印象がある。元気だったときの関係性はこういうときに出るよなあと思った。
病院への送り迎えや世話は、祖父母の隣に住む叔母がやってくれている。年に数回会うときは基本的に元気なときなので、実際の状況はどうなのか正直良くわからない。叔母はFacebookで愚痴をこぼすことが時々あり、それと、SNSで見聞きした介護者の話を照らし合わせながら、こんな感じなんだろうか…と想像できる程度だ。
ただ1つわかるのは、「これ、めちゃくしゃしんどいぞ」ということ。
・育児と違って、日々成長していくような楽しみとか、改善する見込みがない。
・そして終わりが見えない。数年かもしれないし、20年かもしれない。
・病気や怪我などいつ起こるかわからない。福祉施設も病院ではないので、何かあった場合は深夜でも対応しないといけない・(祖父も自宅の階段で転倒し頭を打ったりしている)
・以前ではできたことができなくなったり、想像できない行動を取ってしまう。違う人間のように見えてしまう(小室さんのインタビューでは、妻から女の子になってしまった、と言っていましたね)。特にそれが配偶者や親など自分にとって大きい存在であった場合、なおさらそのギャップが強調される。
・感謝されない。最悪の場合、誰なのかすらわかっていない場合もある。
自分は、今のところ、介護に追われる日々を送ってはいない。ただすぐ隣で、こうした状況に置かれている人がいる。
親戚の集まりでは自分の立ち位置は「孫」で、褒められ可愛がられる。でもそれで良いんだっけ?
だからと言って、じゃあ自分が祖父の世話をできるかというと難しい。叔父叔母も自分たち一家に頼ろうとはしていないし、それを非難する様子ではない。でも、親戚の集まりでは少しの罪悪感を感じてしまう。
それに対する答えは出ていない。今のところは、「良い孫」という役割に徹し、せめてその間は楽しい時間にしたり、精神的負担を減らそうと考えている。なので何回も繰り返される質問に答えたり、話をうんうん聴いたりしている。もちろん義務感だけではなく、残り少ない時間を楽しみたいという気持ちは本心としてある。
できれば避けたいことに、正面きって向き合う難しさ。でもやらなければならない時が、いつか来る。
これはよくある話だなとは思う。
それだけに、日本全国で何万もの人たちが、年老いた/弱ってしまった家族の介護という問題に向き合っていることは尊敬に値する。叔父叔母にも感謝しかない。
それで、自分や自分の家族にも、近い将来同じ状況が訪れない保証はどこにもない。
ずっと目を閉じて、知らないふり・自分には関係ないふりをすることはもうそろそろ限界なのではないか。
KEIKOさんがそうであったように、若くてもある日を境に障害を患ってしまうかもしれない。長時間労働の人は心臓病や脳梗塞のリスクが高い。倒れて、働けないどころか動けなくなるかもしれない。自分や父親にそのリスクがないとはいえない。
じゃあ、どうすべきか。
今すぐ祖父の介護を手伝うという話ではないのだろう。(それもやったほうが良いかもしれないが)
ライフステージが変わり、心身の調子も変わっていく中で、家族の関係性・役割の変化は必ずやってくるということを改めて認識し、”覚悟”すること。
お金や保険の話、延命や手厚い治療はしてほしいのか等、必要な準備や、話し合いをしておくこと。
特に子・孫である自分が、なんでもやってもらう受益者ではなく、推進者になっていくこと。そういう意識をもつこと。
自分は、親が一番期待しているであろう綺麗なお嫁さんや、可愛い孫は、少なくとも直近連れていけそうにない。連れて行けないけど、よりよい関係を作るためにできることは色々ある。次に実家に帰ったときに、少し話そうと思った。