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ハッピーに生きたいアラサーゲイ🏳️‍🌈IT系会社員→🇬🇧で大学院生。日々の記録や考えたことなど。

強い物語


https://www.buzzfeed.com/jp/yuikashima/ryo-asai

いつものように何気なくtwitterを見ていたらこんな記事が流れてきた。

 


記事をスクロールする手が止まったのはこの部分。

 


『大発見のある物語を書くことのできる小説家の存在が、ずっとコンプレックスでした。

でも、それをある先輩作家に相談したら「大発見もなしに、細々としたズレみたいなもので1冊の物語を書けるのは長所なんじゃないの。そこを伸ばせばいいんじゃないの」とアドバイスをいただいて、開き直った部分はあります。

「物語で大事なのは、物じゃなくて語りの方だ」

最近読んだ藤田祥平さんの小説にこんな言葉が出てきて、すごく印象的でした。自分はスペシャルな経験を持っていないのだから、なんてことない「物」を「語り」で成立させていこう、そういう気持ちになりました。

総理大臣になったから、死の淵を見たから、いい物語が書けるわけではない。どんなモノも語りによって物語になる。』

 


◆自分には「強い物語」がない

 


これに似た感覚が自分にもある。

 


自分には「強い物語」がないとずっと思っていた。

今思うとこの表現もあいまいだが、「世の中で何かを成している」人は、

必ずそういうものがあって、そして自分には強い物語がないと。

 


もうちょっと言うと、人生における強い「負」のようなものだ。

 


たとえば、以下のようなもの。

・受験の失敗

・ハーフに生まれ、自分のアイデンティティや、人と違うことに悩む

・過干渉の家族や、いわゆる「毒親」とよばれるような親

・学生時代にいじめられたり、辛い目に遭った経験

・新卒で入社してしまったとんでもないブラック企業

・アフリカで目にした「リアルな貧困の現場」

・辛い恋愛経験

 


どちらかというと、自分の人生はある意味順風満帆で、波風は多くないほうだと思う。

大金持ちではないが、やりたいことは何でもやらせてくれる恵まれた家庭。

高校、大学と第一志望に合格し、就活もそれなりに成功。

友人関係や恋愛関係でそれほど困ったこともない。

ゲイ、というのはあるが、それが原因でいじめに遭ったり、差別されたことはない。

 


だから、強い動機や原体験がなく、

何かにつよく執着して粘り切ることができないし、

大きなことを成し遂げることができないのだと。

極端な話、その資格がないと。

 


すごく、すごく変で、当事者にはとても失礼な話なのだが、

一種の「不幸コンプレックス」のようなものを持っていた。

 


アイデンティティを規定する社会的な枠組みがくずれはじめ、

「自分は何者か?」という問いを否が応でも目の前に突きつけられる。

1人1人が自分の「ストーリー」を模索し、確立しなければならない時代。

そんな時代において、自分はストーリーがない、空虚な人間だと感じていた。

 

 

 

冒頭の記事は、そんな迷える自分にとっては

「それでも良いんじゃない?」と語りかけてくれているようだ。

 


朝井リョウさんがとても印象的だ、と語っている

「物語で大事なのは、物じゃなくて語りの方だ」という一節。

 


◆足りないのは、経験ではなくて、感受性

つらい経験、大きな経験をすることそのものが重要ではない。

それをどう受けとめ、どう咀嚼し、言葉にするか、のほうがよほど重要なのだ。

 


何かを受け止めて咀嚼し、言葉にするという営みには

「強い原体験」はかならずしも必要ない。

「日常の中のちょっとした違和感」ぐらいから出発しても良いのだ。

それに、「自分自身が経験している」必要があるかというと、そうとも限らない。

 


もう一度振り返ると、そうした「種」はいくらでも見つかる。

えっ、そんなのおかしいよ、酷いよ、と思った事件や出来事。

その「種」に対して、自分がどう思うのか、どう考えるのかという作業を

やっているかやっていないかの違いなのだ。

以前、年上の友人が、自分自身が何に対して違和感や怒りを感じるのか、その視点を養うことが大事なのだと言っていた。それを「感受性」と呼ぶのだとも。

 

 

 

◆それでも、本当に何もなければ

強い思いをもった人の側にいて、その人をサポートする立場、

その人のやりたいことを一緒に実現する立場に立てばよいのだと思う。

 


自分自身、どう着地するかわからない。

ただ今は、自分や身の回りの事象に対して、

記事にあるように「言葉の選択肢」を増やし、言語化して表現することが

やるべきことなのかなと思っている。

言葉にしなかった思いや感情たちは、やがて忘れられてしまい、存在していたことさえ

忘れられてしまうのだから。