6月はいままでで一番大変だった案件がようやく終わり、
そういえばブログ書いていないと思い出した。
週1ペースと考えていたのに気づけば月1ペースに落ちている…
普段考えていることはTwitterで書いていることが多いので、
そこからうまく拾ってこれるといいのかもしれない。
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自分以外の属性・状況のひとにもちゃんと気を配っていきたい、
その人を不意に傷つける可能性があることを自覚して、
想像力を持って接したいと思うことがあった。
5月から6月にかけてたまたま2人の知人と(別々で)飲む機会があった。
そこでそれぞれ打ち明けられたのが、
1人は不妊治療をしており、
もう1人はするつもりであるということだった。
彼らはストレートで、結婚もしており、端から見たらとても幸せそうである。
日本社会においてはマイノリティ属性ではなく、悩みなんかないんだろうなあ、
と思ってしまうような存在だった。
ただそういう人たちでも、不妊や離婚といった事情を抱えている。
実際に何も知らない会社の同僚に心無いことを言われたり、
親に「心配してるのよ!」と言われることに対して反発心を覚えたり、
そういったある種の生きづらさを感じていると話してくれた。
自分自身はセクシャルマイノリティーであるため
こういった「生きづらさ」には非常に共感はできた。
同時に、外からは一見わからなくても各々いろいろな事情を抱えている可能性があるから、
いくらマジョリティだからといって無神経な発言をしたり
「あなたの状況ならこうなるのは当たり前(たとえば、結婚したら子供を産むのは当たり前)」
という前提の発言をするのは
できるだけ避けたいなと思ったし、そこにあまり自覚的になれていなかったことに少しショックを受けた。
ほかのマジョリティは悩みとかなさそうでいいね、と勝手に思い込んでいたり、
自分のことばかり考えていたなあ、と。
外からは見えなくても、現代の人々はさまざまな事情を抱えている。
今回の不妊や離婚に限らず、
介護や病気、発達障害、親や家族との関係、
自分のようにセクシャリティのこともあれば、外国籍であるゆえの問題。
いろいろな事情を抱えてる人に対して、常に無神経でない発言をするのは難しい。
すべての事情を深く理解し、万全な知識をつけることはできない。
円滑なコミュニケーションを取るためには何も話さないわけにも行かない。
ただ「できるだけ回避する方法」と「できるだけリカバリーする方法」はあるのだと思う。
それが、
・相手が、自分自身や「一般的にこういうものだと考えられているイメージ」に必ずしも当てはまらない可能性がある、ということを自覚する
・その上で、その「一般的にこういうもの」を相手に押し付けない。
→向こうからその話題を振られない限り、自分からは振らない(そろそろお子さんは…?とか)
・もし仮に自分の発言によって相手が傷ついてしまった、無神経だと感じたら、
そのことがわかった時点ですぐに、誠実に謝罪する
先日金曜ロードショーでも放映されていた「ズートピア」を自分はとても好きだ。
ディズニー映画にありがちな単純な善悪の構図ではなく、
「一般の善良な市民」が持っている「常識」が差別となり他人を傷つけうること、
それに自覚的になることがとても大事であることというメッセージが込められている。
みんなが同じでなくなってきた今の社会を生きる上で、非常に重要な示唆をくれる。
また折に触れて見返し、外から見えない事情を抱えるいろいろな人に対して、
思いを巡らす機会を作りたいと思う。